プロ奴隷(ネットウヨ)とは一体何なのか。 | 本宮ひろ志先生を支援する勝手連(通常時・ネット右翼問題を考える国民会議)

プロ奴隷(ネットウヨ)とは一体何なのか。

このブログ特定精神疾患研究所を立ち上げて数ヶ月。世にブロガ―多しと言えどもここまで無意味なブログはあるまい。何せ電波だしまくりのネットウヨ(プロ奴隷)の支離滅裂なコメントを収集しているのであるから。まったくもって馬鹿馬鹿しい時をこの数ヶ月間で過ごしてきたと言える。

もしあえて有意義だったことを探すとすれば、「統一協会の工作員」だとか「公安の世論操作の一環」とか言われるネットウヨの実態が、相手をしていて大体こういう奴らだなというのが経験的に分かってきたような気がすることか。むろん科学的データに基づくものではないのだが。まあともかくもここ数ヶ月のネットウヨ観察で感じた奴らの特徴を述べたい。





1 幼いときより軍事関連の話題に多く触れて成長してきている。いわゆる軍オタクというものが多い。自分のHPにサバイバルゲームが好きと公言しているものや自衛隊の部隊からハンドルネームを貰うもの、とにかくミリタリーが好きなのである。


2 ネットウヨは多くが特定の話題に反応する。しかも現実社会ではたいした問題になっていないものに。例えば今彼らが必死なのは防衛予算の削減である。


3 さらにその特定の問題への取り組み方が頓珍漢なのである。例えば防衛費の削減は首相の聖域無しの財政カットの一環なのだがネットウヨはなぜか「財務省の主計官が悪い」と批判のボルテージを上げている。

4 決して知的レベルは高くない。実際討論となると多くのネットウヨは論破される。しかし客観的に見て論破されているにも関わらず、執拗に負けてないぞと粘ったりすることは多々。しかも論破されると突然話題を変えるという場合もある。真摯に自己批判などネットウヨにはありえない。



5 ある種病的なものをネットウヨに感じる事が多々ある。それは文章が支離滅裂であったり、言動が不一致であったりするのだが。ただそれは彼らが追いこまれたときに確実に分かる。普段のネットウヨのブログなどを見ると、「正論」から抜き出したような偉そうな文章が書いてあったりする。だが実際に討論などで追いこんでいくと豹変するのである。たちまち文からは幼児性、論理性のなさが明らかになり、さらにはある種病的とも思える言動まで飛び出すことが多々なのである。



6 非常に若い。実際大学生や予備校生、高校生、更には20代の社会人といったところが多いのではないか。

7 大体の場合、2チャンネルが棲息域である。たまにブログ持ちのネットウヨもいるのだが、それらも2チャンネルに固定ハンドルネームで出向き、集客を行っているようだ。ゆえにネットウヨブログへのアクセス数はかなりある。

8 現在の生活に恵まれていない。実際の生活を公開しているものはいないので断言はできないが、現実社会で友達は少ないのではないか。政治に興味のある人間自体が少ないし、しかも軍事オタクとなると友達集めには苦労しそうだ。ところである調査によると日記をつける人というのは「精神的不安定」な人間が多いという。この結果を考えるに、ネットウヨとはある種の孤独感、精神的不安定さを抱え、それを治癒する為のネットでの活動ではないのか。



9 決してレッテルを貼られたくない。自分達が「ブサヨク」「プロ市民」「キチガイ」とのレッテルを相手に貼ってる割にはいざ自分達がプロ奴隷とレッテルを貼られると逆上する。あげくの果てにはよっぽどショックだったのか「サヨは中共のプロ奴隷」と何と自分達に向けられた言葉を反対に使用する事を試みるものがでる始末。明かに攻撃される事、社会から区別される事に動揺する。



10 とにかく自分達は多数派に属していると感じたいようだ。多数派が言っている事は黙って聞け。選挙で自民が勝った。だから正しい。つまり多数派は正しい。俺達はその多数派の一員だ。文句を言う奴は非国民だ。だから正しい俺達が反日分子を成敗という理屈らしい。何の事はない。プロレタリア独裁と同じ言いぐさだ。




以上私が感じたネットウヨ(プロ奴隷)の特性を述べてきた訳だが、私の実感としては世に言う「右派宗教の工作」だとか「公安陰謀説」より、むしろ寂しいニ流の(もちろんこの資本主義日本社会でそう決めつけられた)オタク人生を歩む哀れな青年たちの叫びという気がしてならない。

論議する友達が欲しい。自分達を認めてくれる人が欲しい。そして自分達は多数派だと信じることで自信を得たい。安心感を得たい。彼らのそういう叫び(しかもある種の精神的不安定さを抱えながらの)があの狂気とも思えるネットウヨの行動に繋がるのではないか。

そう感じているからか私はネットウヨに悪感情を抱く事はあまりない。むしろ彼らにそういう行動しかさせないこの日本社会こそに問題を感じる。

数十年前、この国には現実に喫茶店や友達の家でこの国の将来を語る若者達がいた。自分の命を捨て不正義に立ち向かう人々がいた。

そして現在、彼らの多くはどこかに消え、若者は政治を語ろうとはしなくなった。いや人と真剣に話をする機会すらないではないか。

人と話すというのは本当に重要なことである。気持ちを落ち着け、思考を高め、自らの間違いをも見つける。ありとあらゆる人間社会の場面において話という行為ほど日常的かつ不可欠なものはない。

しかし実際のところ、親とも友達ともお互い傷つかない程度の会話を恐る恐るやり取りするというのが現在の日本の普通の風景だ。貴方が友達と親と真剣に熱く話し合った時はあるだろうか。ないか、それとも遠い昔の事ではないだろうか。

もしこの国に熱い心を持った若者達が真剣に膝を交えて討論するそういう光景があったのなら、私はネットウヨ(プロ奴隷)という言葉は存在していなかったのではと思うのである。近い将来この言葉が死語となり、真の民主的な日本国が建設される日が来ることを願おう。そして努力しよう。真の愛国者にとっても、そしてプロ奴隷達にとってもその日が来る事は勝利なのだから。